正岡子規について

正岡子規 略歴
慶応3年9月17日(1867年10月14日)~明治35年9月19日(1902年9月19日)
本名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)と改める。

子規とベースボールについて

 松山東高等学校野球部の創部は明治25年(1892年)だが、その3年前の明治22年夏に子規が松山にベースボールを持ち帰ったといわれている。
 
河東碧梧桐は、子規から「球が高く来た時にはこうする、低く来た時はこうする」と具体的な指導を受けて、二人は素手でキャッチボールをしている。なおこの時碧梧桐の実兄である竹村鍛は、「球とバットを子規に託したから、ベースボールという面白い遊びを帰省した子規に聞け」という言葉を碧梧桐に伝えている。
翌年11月に碧梧桐は子規への手紙の中で、ベースボールが松山中学校の生徒たちの間で大流行していると記している。
 
明治19年(1886年)には、子規はすでに捕手としてベースボールをしていたが、子規が最もベースボールに熱中したのは明治21年~22年頃で、「ベース、ボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」(「筆まかせ」)と絶賛している。
そして明治23年(1890年)には、「筆まかせ」の「筆頭狩」の中に、「春風やまりを投げたき草の原」という句を記し、ベースボールに愛着の念をよせているが、明治24年の暮れには常盤会寄宿舎を出て小説の執筆に取り組み、翌年には学年試験の落第をきっかけに大学の退学も決意する。
こうした中で喀血してからは体力が衰えたこともあり、子規は次第にプレーすることから遠ざかっていったようだ。

ベースボールについて解説した随筆『松蘿玉液(明治29年)』では、子規の卓越した表現力で分かりやすく説明していますが、日本で最初のベースボール・ジャーナリストではないでしょうか。その内容は次の9項目です(一部紹介)。

ベースボール に至りてはこれを行う者極めて少なくこれを知る人の区域も甚(はなは)だ狭かりしが、近時第一高等学校と在横浜米人との間に仕合(マッチ)(試合)ありしより以来ベースボールという語は端(はし)なく世人の耳に入りたり。されどもベースボールの何たるやは殆どこれを知る人なかるべし。後略。
 
 ベースボールに要するもの は凡(およ)そ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならばなほ善し)。
皮にて包みたる小球(ボール)・投者(ピッチャー)が投げたる球を打つべき木の棒(バット)・一尺(約30.3cm;ルール上は38.1cm)四方(正方形)ばかりの荒布にて座布団の如く拵(こしら)へたる基(べーす)三個本基(ホームベース)及投者(ピッチャー)の位置に置くべき鉄板様の物(投手板)一個づつ、攫者(キャッチャー)の後方に張りて球を遮るべき網(バックネット)・競技者十八人(九人づつ敵味方に分かるるもの)・審判者(アンパイア)一人、幹事一人(勝負を記すもの;スコアラー)等なり。
 
 ベースボールの競技場 図によりて説明すべし。中略。「いろはに」は正方形にして(当時ホームベースも正方形であった)一五間四方なり。後略。
(注)塁間の様子及び距離;一五間は約27.27m;ルール上は27.431m。なお各ベース及び守備位置の名称は記念碑表示の通り。
 
 ベースボールの勝負 攻者=攻撃側(防禦者(ぼうぎょしゃ)=守備側の敵)は一人づつ本基(ホームベース)(い)より発して各基(ベース)(ろ、は、に)を通過し再び本基に帰るを務めとす、かくして帰りたる(生還)者を廻(ホーム)了(イン)といふ。中略。除外(アウト)が3人に及べば防者(守備側)代わりて攻者となり攻者代わりて防者となる(アウトが3人になると守備側が攻撃側になり、攻撃側は守備側に交代する)。
 
 ベースボールの球 ベースボールにはただ一個の球(ボール)あるのみ。而(しこう)して球は常に防者の手にあり。後略。
 
 ベースボールの球(承前) 場中(塁)に一人の走者(ラナー)を生ずる時は球(ボール)の任務は重大となる。中略、今走者と球との関係を明らかにせんに、走者はただ一人敵陣の中を通過せんとするが如き者、球は敵の弾丸の如きものなり。後略。
 
ベースボールの防者 攫者(キャッチャー)は常に打者(ストライカー)の後に立ちて投(ピッ)者(チャ―)の投げたる球を受け止めるを務めとす。中略。
投者は打者に向って球を投ずるを常務と為す。後略。
 
 ベースボールの攻者 攻者は打者(ストライカー)と走者(ラナー)の二種あるのみ。打者は成るべく強き球を打つを目的とすべし。
中略。走者は身軽にいでたち敵の手(この当時グラブを使用してなかったので「手」
の表現)の下をくぐりて基(ベース)に達すること必要なり。後略。
ベースボールの特色 前略。球戯(ベースボール)はその方法(ルール)複雑にして変化多きを以て傍観者(観客)にも面白く感ぜらる。中略。ベースボール未だかつて訳語あらず、今ここに掲げたる訳語は吾(われ)の創意に係る。訳語妥当ならざるは自ら之を知るといへども匆卒(そうそつ)の際改竄(かいざん)するに由なし。君子(くんし)幸いに正(せい)を賜(たま)へ。  升(のぼる) 


「野球」の名付け親河東碧梧桐は、「子規の回想」と題する文中で、「ベースボール」を訳して「野球」と書いたのは子規が嚆矢であったが、それは本名の「升」をもじった「野球(ノボール)」の意味であった・・・と断わり書きしている。
 
その他にもベースボールを「ボール」「球戯」「弄球」「能球」と表現しており、「弄球家」にはベースボールマンと振り仮名をつけている。なお子規がベースボールを野球(やきゅう)と表現したのは、明治32年の紀行文「小石川まで」には、競技名として「野球」という言葉が使われている。
 
※明治27年に、「一高野球部史」をまとめる作業のなかで、中馬(ちゅうま)庚(かのえ)が「Ball in the field」という言葉をもとに、初めてベースボールを「野球(やきゅう)」と命名した。

「洒落っ気」たっぷり

明治22年の「筆まかせ・第一編」に、英語の単語を発音にあわせて漢字で表し書き並べている(一部紹介)。
 絵好 Economy、今晩聖書無 Conversaition、比丘鳥唖 Victoria、火巣鳥 History、蛇蟠 Japan など。      
その中に、「Baseball batを米洲棒類抜刀」と表しているものも含まれている。

備忘メモ

1.和田克司氏(松山東高校・昭和31年卒);明教第36号(2006年)より
子規の喀血について(三度の大きな喀血をしている)
① 最初の喀血は、明治22年5月9日夜、常磐会寄宿舎で突然喀血した(P193)。
そのため、明治22年7月松山に病気療養のため帰省した。
② 2度目の喀血は、明治28年5日17日。従軍記者として清国に渡っていたが、帰国の船中で大きな喀血をした(P.194)。
③ 3度目の喀血は、明治33年8月13日。この時、子規は寝たきりの病床生活に入っている。(バイオリズム;5月が一番悪い)。
※他にも明治21年8月に鎌倉で喀血した(P.206) 
 
その他
松蘿玉液;新聞『日本』明治29年4月21日~12月31日まで連載。その中で、7月19日、23日、27日の3度にわたりベースボールについて説明している。
 
参考までに、①P.193;子規の手形は左手で約18.5cmであった。身長は、163.9cm(明治23年3月の時)。
 
子規が遺した多くの俳句や短歌の中に「ベースボールの歌」がある。